初代辰五郎は、鷺沼村(習志野市)の農家から江戸日本橋、堀江町の団扇問屋、伊勢屋惣右衛門に奉公し刻苦勉励の結果のれん分けをしてもらい、同じ堀江町の団扇河岸に錦絵と団扇制作の問屋を開いたのが元治元年(1864年)。江戸末期の世の中で頂いたのれんを守った。

二代目辰五郎(芳太郎)は江戸、日本橋に育っただけに何事にも自負するところがあり、父とともに苦楽を分け、明治三年(1870年)江戸名所地図に描かれた神田弁慶橋(元岩井町19番地)に店を移し、文明開化に注目すると、築地居留地や開港の横浜外国商館に千代紙細工や錦絵そのほかを売り込み、商売に活路を開き、日本の紙芸を遠く欧州に輸出した。その間、河鍋暁斉、柴田是真という著名浮世絵師との交際も深く、その公私にわたる生活趣味は三代目に引き継がれた。

三代目辰五郎(鐘三郎)は明治十一年生まれの神田っ子。幼児より錦絵蒐集に魅せられ、また歌舞伎好きで、劇聖九代目団十郎、五代目菊五郎その他名優揃いの観劇は欠かしたことがなかった。江戸趣味のこと、芸能に関するものに私生活全てをかけたといってよい。同好の士、清水晴風、淡島寒月、井上和雄、石井研堂等の交遊、錦絵の鑑定に一見識を持っていた。異色の自主出版として石井研堂と共著「錦絵の改印考証」「地本錦絵問屋譜」そして、江戸千代紙代表作の復古的出版「千代紙百種、鶴の巻」「宝船集」がある。初代から引き継がれた江戸千代紙作りに専念するかたわら、二代目を受け千代紙と同じ手法で和紙に江戸風俗を手摺りにしたナプキンを作りドイツ系の商館を通じ欧州に売り込み、店も大いに発展した。しかし大正十二年の関東大震災で、おびただしい紙芸に関する蒐集品をはじめ、命綱である千代紙の版木をことごとく失った。一時は途方にくれたが、父時代の明治維新を思い浮かべ、倅四代目や弟子たちを督励し、遂に約一千種の千代紙版木を復活した。このおかげで江戸千代紙が大東京に残った。

四代目辰五郎(正雄)は明治三十九年生まれ。三代目の長男でチャキチャキの神田っ子。江戸っ子としては三代目になる。父の多趣味を継ぐには時勢が悪く、錦絵や千代紙、また姉さま人形にしても、趣味品となって商売が益々難しくなった。それが第二次世界大戦で、またまた明治維新以上の全財産滅亡の大難に遭った。三度の食事さえことかく始末であった。しかし四代目は庶民の生きる道はきっとあると初代、二代目の昔話を三代目の父より聞かされ、生きる信念を持ち、裸一貫から、幸い疎開してあった千代紙版木をコツコツ復刻していった。昭和十七年(1942年)、今度震災が起こっても地盤は大丈夫なように上野のお山続きの谷中に店を構えた。

現在では五代目にあたる四人の兄妹がそれぞれの役割を担って暖簾を守っている。四代目の遠くから来た方に申し訳ないからという理由で谷中本店だけは年中無休で営業している。